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安土城放火事件の犯人は本当に織田信雄なのか? 動機に注目し捜査する

あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第4回

■安土城の立地について

 安土城は、天正4年(1576)、天守と石垣を擁する近世城郭として築かれた。記録によれば、天守は5重6階地下1階の規模があり、高さは16間半(約30メートル)に及んだという。当時としては、画期的な高層建築物だった。
 それまで美濃国(岐阜県)の岐阜城を居城としていた信長は、家督と岐阜城を嫡男の信忠に譲ると、自らは新たに築く安土城を居城とする。すでにこのときの信長は、近江国のほか伊勢国(三重県)・越前国(福井県)などを領国としており、美濃国では東に偏りすぎるきらいがあった。そういう意味からすると、安土は領国の中心に位置しており、しかも北国街道と中山道が近くを通る交通の要衝でもあった。
 しかも当時、安土は琵琶湖に面していたから、京都に行くとき、坂本や大津まで舟を利用することも可能だった。安土から京都までは、舟を使えば半日で着いたという。それに、信長は越後国(新潟県)の上杉謙信との対決を想定しており、いざというときに、安土で謙信の上洛を阻もうとしたとも考えられている。本願寺と結んだ謙信が上洛するとすれば、北国街道を南下してくることが予想された。

■「本能寺の変」後の明智光秀

 本能寺の変直後、光秀がまず乗り出したのが、信長の居城である安土城を接収することだった。安土城を押さえることで、信長の後継者になることを示そうとしたのである。また、そのころ越中国(富山県)の魚津城で上杉氏と対峙していた柴田勝家を迎え撃つ目的もあったろう。
 光秀は1万余の軍勢を率いて京都から安土に向かったが、その途次、瀬田城の山岡景隆が瀬田橋を落としてしまっていたため、安土に向かえなくなってしまったのである。瀬田橋は、瀬田川に架かる橋で、京都から東に向かう際には必ず通らなければならない橋だった。少人数であれば、舟で渡ることもできたが、1万余の大軍ではどうにもならない。結局、6月3日と4日の二日間、光秀は居城の坂本城にいて、信長の家臣らに勧降工作を行ったり、敵対していた戦国大名に信長の死を知らせたりしている。そして、瀬田橋の修理が終わった5日になって安土へと向かっている。このとき、安土城は日野城主の蒲生賢秀が守っていたが、信長の妻子らを日野城に避難させていたため、安土城では戦闘もなく、入城できた。
 この安土城で、光秀は朝廷からの使者を迎えるなど、信長の後継者としての地位を固めつつあったが、6月8日には安土城を出立し、京都で御所に参内すると、新政権樹立のため、畿内の平定を進めていく。ところが、6月13日、備中国(岡山県)の高松城で毛利氏と対峙していた豊臣秀吉が畿内に戻ってきたことから、山崎で迎え撃つが敗北し、死に追い込まれてしまった。

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小和田 泰経

おわだ やすつね

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(ともに新紀元社)他。


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